学生時代 、登山にもハマっていた。始めて2000m以上の高山に登ったのは白山であった。 現在の登山ルートはかなり増えた様であるが、この時代はそれほど多くはなかった。最初の登山は友達と二人で、勝山からバスで別当出会迄行き、白山室堂に至る本命ルートであった。初めての素人登山だったので、休憩のほうが多い感じで、かなり疲れた事を憶えている。この時は室堂の山荘に1泊して、御前峰に登った後、別当出会へ下山した。
2度目は友達と3人で鳩ヶ湯温泉から尾根伝いに別山を経て、白山室堂、御前峰から北側の 中宮温泉方面へ下るコースだった。鳩ヶ湯は大野市の奥、九頭竜湖手前を左に入った山道沿いにある、ひなびた温泉であった。 この頃から、テント泊が主体であり、温泉や山荘に泊まることは殆んどなかった。学生の身分と云う理由もあったが、ワンゲル部や山岳部の友達が多く、山荘や温泉の側にあるテント場で泊まるのが日常であった。
ここから稜線に出て、尾根伝いに別山を目指したが、 午後遅くになった為、手前の別山平の池の側で1泊した。 翌朝、別山を経て白山室堂の山荘近くのテント場にテントを張り、御前峰へピストンをした。半世紀前の話なのに、意外と鮮明に憶えているので、自分でも驚いている。翌日は大汝峰を経て、中宮温泉方面へ下山したのだが、このルートは結構急な下りだった。ブナ林の葉が陽の光で黄色に輝いていた映像が今だに脳裏に焼き付いている。多分、晩夏か初秋の頃だったと思う。
半世紀振りに大野に行って聞いた話だが、鳩ヶ湯温泉も廃業、再開と云う歴史の浮き沈みがあった様である。(2023/10/22:追記)
越前大野に経ヶ岳と云う標高1625mの山がある。この東には日本百名山の荒島岳があるが、当時はあまり有名ではなかったと思う。従って、私は荒島岳登山の経験はなく、もっぱら経ヶ岳に2〜3度登っていた。経ヶ岳から尾根伝いに別山から白山への登山ルートもあったが、日帰り登山には適した山であった。4月終わりの頃、この山の山頂付近にはまだ残雪が残っていて、下山時にブリザードをするのが楽しみであった。ブリザードとは、山岳部の友達に教わった方法で、登山靴の踵部分でコントロールして雪面を滑り降りる技術である。スキーとはまた違った楽しさがあった。
左の写真は先日(2023/10/22)、越前大野牛ヶ原から撮った経ヶ岳の山容である。半世紀振りに訪れたが、山は変わらず、そこにあった。
青春の山は心に刻みこまれて消えることはない。
又、この山で単独行をしたこともある。六呂師高原付近で、1泊するつもりでテント場を探していた。すぐ傍に、何かの山荘だったと思うが、許可を取りに挨拶に行った処、「そんな所より、内に泊まれる場所があるから、、、」と言われて、好意に甘えることになってしまった。食事は自分で作るつもりで、キスリングを開けると、ラジウスの燃料が溢れて、入っていた食料が駄目になっていた。これを見た山荘の奥さんがカレーライスを御馳走してくれた。これらの好意に対する感謝の念は半世紀経っても忘れることはない。悲しいことに、山荘の名前や人々の顔を思い出すことが出来ない自責の念が今だに残っている。翌朝早く、キスリングを預かって貰い、空荷で経ヶ岳へ登り、下山した。
次に思い出すのは北アルプスの立山から剣岳への登山である。立山はバスが室堂まで入っていて、観光客も多いので、高山と云う印象はない。これらの山にも1〜2度登っているが、印象が強いのは10月初旬の山行である。バスで立山室堂へ行き、室堂のテント場で一泊して、そこから立山山頂を経て剣沢にベースキャンプを設置した。この時は3人だったので、三角テントを張って一泊した。翌早朝、剣岳を目指して登山を開始したが、途中チェーンを伝ってトラバースする岩場が多く、かなり危険な山であった。しかし、山頂での眺めは素晴らしく、後立山連峰の山並みが今でも記憶に残っている。その後、ベースキャンプに戻り1泊した。翌朝、テントを出たら、剣沢一帯が薄雪に覆われていた。これを見て、その日は立山室堂を経て下山した。
これらの山行きは私にとってはホンの序章である。北端は北海道利尻岳から、本州では東北山脈、北アルプス表銀座から奥穂高、山陰の大山、九州の九重連山を経て、南端は屋久島の宮之浦岳までの山行きがある。これらは続編で順次述べることにする。