この山旅は記録が残っていないので、私の記憶だけを頼りに思い出してみる事にする。大学一年の夏休みを利用して、友達3人で磐梯山登山と岩手山から八幡平を経て十和田湖へ行き、更に青森から北海道に渡り、知床半島から大雪山、そして北の果の利尻岳に至る約一ヶ月の山旅であった。この山旅の資金を稼ぐために、キャディのアルバイトを一ヶ月近くした。この当時のゴルフは未だカートがなく、セルフバッグで客に随行する、今にして思えばかなりハードなアルバイトだった。夏の暑い時期でもあった。
山旅の始まりは磐梯山からである。猪苗代湖側から入り、登山道脇のブッシュの中に、3人分のキスリングを隠して空荷で磐梯山に登った。標高は1816mの山であるが、アプローチが近くまで来ている為か、比較的簡単に山頂に着いた記憶がある。空荷だったせいもあると思う。山頂は明るく、猪苗代湖が良く見えた。下山してキスリングを回収し、裏磐梯のキャンプ場でテントを張った。翌日、ゆっくりと五色沼巡りをして、テント泊した。5色沼と云われているが、際立って5色には見えなかった印象である。翌朝早く汽車で盛岡を目指した。
先ず、盛岡から網張温泉に行き、この登山口から岩手山の稜線に登った。この稜線近くに水場があり、そこでテント泊をした。この辺り、当時は何もなかったと思うのだが、最近の地図には岩手山八合目避難小屋がある。多分この近くだったのかも知れない。翌朝、御来光を見るため、 早起きをして岩手山に登った。この山頂は赤茶けた地質で、御来光の朝焼けと相まって、強烈な印象が残っている。その後、テントに引き返し、犬倉山から三ツ石山へ向かった。途中稜線を歩いている時、かなり近くで雷に会い、三ツ石山山荘に逃げ込んだ。この日は多分、三ツ石山山荘に泊まったと思う。
翌日の記憶が曖昧だが、大深岳を経て八幡平方向へ稜線を歩いた。標高1400〜1500m程度の尾根歩きであったが、途中、諸檜岳辺りでテント泊したと思う。翌日の昼頃、八幡平に着いたが、山頂と行ってもなだらかな平地状をしていた印象がある。登山客かハイカーか、人影が多かった記憶がある。その後、八幡平を後にして蒸ノ湯温泉へ向かった。温泉場の近くにテントを張り、温泉に浸かった。白濁した温泉で、気持ち良い体感が今も蘇ってくる。蒸ノ湯温泉はひなびた湯治場で、岩盤浴が出来、筵を敷いた小屋の中で、農閑期のお婆ちゃん達と会話した記憶が残っている。また、行ってみたいと云う気持ちが未だ60年間も続いている。
皆んな、満ち足りた気持ちで、翌日バスに乗り十和田湖へ向かった。十和田湖で同級生の別グループと合流する約束があったからである。彼らは8人位のメンバーで、十和田湖畔の確か銅像のある場所で会うことが出来た。昼食後、今迄、岩手山から一緒だった友達と別れ、今度は別グループの一人である友達と二人で青森へ向かった。 途中、奥入瀬渓流を見ながら、青森駅に着いた頃は夕闇に包まれていた。確か、8月初めの頃だったと思うが、偶然、ねぶた祭に遭遇し、あの特徴ある山車の明るく鮮やかな絵柄が脳裏に焼き付いている。そして、連絡船で函館へ向かった。
ここからが北海道での山旅になる。函館から汽車で、昭和新山(当時はこう読んでいた筈)今の有珠山に立ち寄り、襟裳岬に向かった。襟裳岬の印象は大地の先端が岩礁になり、徐々に海中に岩が飲み込まれていく様な風景であった。この日は根室本線の名前は忘れたが、駅の近くにある公園でテント泊をした。狭い公園だった記憶が残っている。今では想像できないかも知れないが、当時は許されていた良き時代であった。
翌日、根室本線で知床半島を目指し、バスで、詳細な経路は忘れてしまったが、羅臼港に着いた。羅臼岳に登る登山口があったからである。登山口から少し登った辺りに露天の温泉があり、近くにテントを張って、その日はその温泉に入り、そこに泊まった。翌日、熊の遭遇に気を使いながら、声を出し合って羅臼岳に登った。この山の山頂を異様に感じた記憶が残っている。緑の低木の中に、山頂だけが大きな岩の積み重ねで出来た珍しい山であった。帰りは斜里町側へ下山した。
斜里町から斜網本線で摩周湖に立ち寄り、雄阿寒岳を経て、大雪山を目指した。大雪山は2000m級の高山が連なる山系の総称で、大雪山と云う山はない。我々は先ず、黒岳から登攀し、山頂付近で1泊した。登りが結構キツかった印象が残っている。そこから尾根伝いに、中岳、荒井岳を経て、最高峰の旭岳に登った。途中、何泊したのか?山の様子はどうだったか?記憶が飛んでしまったが、旭岳は良く憶えている。又、下山途中で幾つもの遭難者の ケルンを見て、 冬はかなり危険な山であることを知った。下山して、旭川へ向かった。
旭川は久々の下界で、一番の記憶は焼きとうもろこしの醤油が焦げる匂いだった。当然、二人でそれを食べ、その日に宗谷本線で稚内を目指した。 時節は既に8月半ばを過ぎていた。稚内に着いて、宗谷岬を見た後、利尻島への連絡船に乗った。利尻島では利尻岳登山口近くの草地にテントを張った記憶がある。1,2泊して英気を養った後、利尻岳に登る日の朝、一面の霧が立ち込めていた。気温も低く寒かったし、長旅で体力もかなり消耗していた事もあり、顔お見合わせて出た言葉は”登山は諦めて帰ろうか?”であった。結局、利尻岳には登らず、その日の内に稚内への連絡船に乗った。船上での海風は寒く、北海道の北端では既に秋が迫っていた。
稚内から宗谷本線で旭川、そこから函館本線で函館、連絡船で青森へと渡り、夜行列車の「日本海」で帰途についた。2日近くを汽車の中で過ごし、友達とは敦賀で別れ、実家に帰り着いた時は8月も終わりに近づいていた。体力はかなり消耗したが、今にして思うと、若いから出来た強行軍だった。生涯忘れ得ない貴重な体験となった。