登山歴といっても若い時の話であるーその4  (燕岳、表銀座、槍ヶ岳、北、奥穂高岳、前穂高岳)          

趣味

1966年10/4〜11、北アルプスの燕岳から表銀座を経て、槍、穂高連峰の登山と上高地へ下る山旅の話である。私とワンゲル部と山岳部の友達3人での山行であった。この記事も山岳部だった友達が残した山日記の記録を元に思い出してみることにする。入山は中房温泉から登り始め、燕山荘近くのテント場で一泊した。翌朝、燕岳山頂に登り、花崗岩で出来た独特の風景に感動した。ここからが表銀座の尾根歩きが始まる起点である。

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表銀座は快適な尾根歩きで、途中スケッチ等をして、のんびりと歩いた。大天井岳を過ぎると、左手目前に常念岳の山容が実に美しく、遠く槍ヶ岳、穂高連峰を見ることが出来、当時からも人気のコースであった。赤岩岳を過ぎ、赤沢西岳小屋近くでテント泊した。翌日、槍ヶ岳を目指し、一旦下って登る槍沢の長い登攀に、辛かった印象が残っている。当時、槍ヶ岳山荘の大キレット側に猫の額ほどの小さなテント場があった。現在はおそらく無くなっているだろうが、そこにテントを張って、槍ヶ岳山頂に登った。鎖場の様子や狭い山頂からの展望は今も胸に刻まれている。

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翌日はかなりハードなスケジュールであった。大キレットを越え、北穂高岳を登り、奥穂高岳山頂手前を左へ下り、ザイテングラートから涸沢に至るコースであった。 中岳を過ぎ、南岳から大キレットへ下り、ここから一気に、北穂高岳の急峻な北斜面の登りとなる。当時のキスリングは帆布の様な硬い生地で、両サイドにタッシュが付いた横長の形状をしており、重心が左右に振られるため、大キレットの岩場では苦労した。又、北穂の急峻登り斜面でも、両肩に掛かる荷重が身に堪えた。この時の苦しさは60年過ぎた現在でも身体が憶えている。そして、やっとの思いで辿り着いた北穂高岳山頂での感動は何物にも変え難い思い出となった。滝谷方向からクライマーの打つハーケンの音が聞こえていた。その後、奥穂高岳手前にある穂高岳山荘の左からザイテングラートを下り、涸沢カールにベースキャンプを設けた。

前日(10/7)の強行軍で、体力を消耗した為、この日は体力回復を待って、ゆっくりと過ごした。周辺の紅葉も休息の癒やしになった筈である。翌日(10/9)、空荷でザイテングラートを登り、奥穂高岳に登攀した。 そこから前穂高岳を目指し、吊り尾根に向かった。途中、尾根の中央部分にケルンがあった。 山岳部の友達のクラスメートが、1,2年前のGWに単独行をして、遭難死した石積みであった。 山岳部の仲間と交代で、私の友達も遺体を背負って、上高地まで降ろし、荼毘に付した事があった。 3人で手を合わせて冥福を祈った。その後、前穂高岳に登り、引き返して、吊り尾根、奥穂高岳、ザイテングラートを下り、ベースキャンプの涸沢カールに戻った。

翌日(10/10)も休息日となった。やはり穂高連峰はハードな山であったが、皆んなは 大仕事を終えて安堵した気持ちになっていた。涸沢カールは昨日登った前穂高岳と吊り尾根の北側にあり、テント場は石ころだらけの地面で、決して居心地の良い場所ではなかったが、周り一面のダケカンバやナナカマドの紅葉はそれらを凌ぐものがあった。翌日、上高地へゆったりと下山して、河童橋近くの梓川沿いにある小梨平キャンプ場にテントを張った。 この日も周辺を散策などして、終日過ごした。そして、翌日上高地を後にした。

学生時代の登山歴はこの記事をもって完結とする。 社会に出てから、登山とは全く無縁の生活になってしまったので、私の生涯で一番凝縮された山旅となった。60年近く経っても、断片的とは云え、その記憶は銀鱗のように光っている。